『椿と花水木 万次郎の生涯 下』津村陽
とにかく一人の人生を語るの
だから盛りだくさん。
結婚したが、万次郎が捕鯨船に
乗っている間に妻のキャサリン
は亡くなる。
いよいよ日本に帰れる。
まずは琉球。
そして薩摩で取り調べ。
薩摩藩主、島津斉彬はアメリカ
のことをくわしく聞きたがる。
不自由な侍言葉を使って事細か
に説明する。
とにかく頭がいいから質問に
どんどん答えていく。
長崎、高知に送られそこでも
取り調べを受ける。
漁に出て遭難したのが14歳、
それから12年ほどで中ノ浜
に戻った。
ペリーが来た時は通訳として
使ってもらえなかった。
なんてかたい頭だ。
安政二年十二月、幕府から
アメリカ航海術翻訳を命じ
られた。
外国航海法の用語は日本には
なかったので、すべて万次郎が
創作した。
万次郎、鉄と結婚。
妻と女の子2人男の子1人を
置いて咸臨丸に乗りアメリカ
に渡る。
艦長勝麟太郎、万次郎は通弁主務。
福沢諭吉もいた。
アメリカ側の通訳はジョセフ・ヒコ
こと播州浜田の船乗彦蔵だった。
彦蔵も暴風雨に会いアメリカ船に
助けられアメリカに帰化した。
ブルック大尉が同行したが、万次郎
の英語に感動した。
アメリカでも聞き言葉で覚えたので
流暢にしゃべることができた。
荒天に日本人は弱く万次郎以外は
船酔いでものにならなかった。
サンフランシスコでは大歓迎を
受けた。
日本人は習慣風俗の違いにおどろく
ばかりだった。
勝麟太郎は常にそばに万次郎を
おき通訳として使った。
アメリカ人も日本人が馬を操れると
思っていなかった。
ワシントン大統領の子孫はどうして
いるか聞いても知らないといわれて
驚いた。
日本でいえば源頼朝や徳川家康に
相当する大偉人である。
アメリカ人が驚いたのは日本の
刀の切れ味だった。
万次郎が買ったアメリカのお土産は
写真機とミシンだった。
撮影法は流暢に英語を操れる万次郎
だから理解できた。
書物もいろいろ手に入れた。
日本に帰り万次郎がうけた褒美は
もっとも少ないものだった。
自分の働きを受け入れられない
武家社会の因習を、ひそかに
嘲笑した。
万次郎はのちに開成学校の教授に
なった。
東京帝国大学の前身のこの学校で
英学を教えることになった。
鉄が亡くなったあと後妻を迎えるが
離別し、しげという女と結婚する。
日本では身分の差を感じながら
生きたが、アメリカで自由に生きる
こともできた。
本当に万次郎の頭脳を活かせたのか。
そういう時代に生きた人だったので
しょうね。
日本人はもっとジョン万次郎を
知るべきです。
理解があればもっと大きな仕事を
成し遂げた人だと思います。
見ていただき
ありがとうございました。

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