『親鸞 激動篇 下』五木寛之
読み終わりました。
全部読んでから感想を書いても
いいんでしょうけど、やはり
気になる事があります。
激動篇 上 では舞台は越後
雨ごいを頼まれて、無理だと
思いながらも引き受ける。
なぜ?
分からない・・・
念仏にそんな力はないと言いながら
なぜ引き受けたのか。
天に思いが通じたのか命を落とす前に
雨は降った。
これはフィクションだからなのか。
激動篇 下 では雨ごいを成功させた
親鸞のもとに人々が集まる。
そりゃそうですよね。
不思議な力があると思うでしょう。
でも、親鸞は言う。
念仏を唱えても飢餓は救えないし、
病気も治らない。
信じて念仏を唱えると極楽に行ける。
この時代は苦しみが多かったから
せめて死んだら極楽に行きたいと
思うものなのかもしれない。
念仏を唱えることで、生きながら
にして極楽を感じられる。
苦しさから逃れられたい気持ちも
分かる。
今はどうなんだろう。
日本はある意味恵まれていると思う。
今が極楽なのかもしれない。
だから、無宗教の人が多いのかも。
兄は一人で実家の仏様を守っている。
病院で検査の日、自分のご飯が
いらなくても仏様にはご飯をあげてるらしい。
そこまでしなきゃいけないのか。
私の考えは生きてる人が癒されない
ことは必要ないんじゃないかと。
癒されないとは違うかも。
言いたいことが言葉にならない。
激動篇 下 は越後から関東へ移る。
完結編は京に戻る。
悪人こそが念仏によって救われるという
言葉で心を痛める。
ありがとうございました。
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