☆*゚真珠のつき世界☆*゚

面白く生きたい!ただそれだけです。面倒な話題はできるだけしたくないと思っています。

『親鸞 激動篇 下』五木寛之


読み終わりました。
全部読んでから感想を書いても
いいんでしょうけど、やはり
気になる事があります。


激動篇 上 では舞台は越後
雨ごいを頼まれて、無理だと
思いながらも引き受ける。


なぜ?
分からない・・・
念仏にそんな力はないと言いながら
なぜ引き受けたのか。


天に思いが通じたのか命を落とす前に
雨は降った。
これはフィクションだからなのか。


激動篇 下 では雨ごいを成功させた
親鸞のもとに人々が集まる。
そりゃそうですよね。
不思議な力があると思うでしょう。


でも、親鸞は言う。
念仏を唱えても飢餓は救えないし、
病気も治らない。


信じて念仏を唱えると極楽に行ける。


この時代は苦しみが多かったから
せめて死んだら極楽に行きたいと
思うものなのかもしれない。


念仏を唱えることで、生きながら
にして極楽を感じられる。
苦しさから逃れられたい気持ちも
分かる。


今はどうなんだろう。
日本はある意味恵まれていると思う。
今が極楽なのかもしれない。


だから、無宗教の人が多いのかも。




兄は一人で実家の仏様を守っている。
病院で検査の日、自分のご飯が
いらなくても仏様にはご飯をあげてるらしい。


そこまでしなきゃいけないのか。
私の考えは生きてる人が癒されない
ことは必要ないんじゃないかと。
癒されないとは違うかも。


言いたいことが言葉にならない。


激動篇 下 は越後から関東へ移る。
完結編は京に戻る。
悪人こそが念仏によって救われるという
言葉で心を痛める。


ありがとうございました。